ささぐり昔話
篠栗町の由来
「ささぐり」という名前の由来何ですか?と良く聞かれます。この「ささぐり」は、古い文献や古地図には「笹栗」とか「篠栗」とか書かれています。
「ささぐり」の名前の由来は良くわかっていませんが、「かすや」という名は日本書紀や古事記のなかにはすでに登場しています。これは、古墳時代後期(527年)に大和朝廷に反乱した磐井と呼ばれた北部九州を統治していた豪族が、戦いに敗れたために、その息子である葛子が捕らえれ、死罪を逃れる為に「糟屋屯倉」を朝廷に献上したとされます。(「糟屋屯倉」は今の糟屋地区内にあったとされます。)次に、746年に造られた大宰府の観世音寺にある梵鐘と同型で京都妙心寺にある日本最古の梵鐘(国宝)にも「糟屋評」の文字が彫られています。また、万葉集の中にも「滓屋郡」が出てきます。
粕屋町の江辻遺跡からは、「加麻又群」と刻まれた須恵器や「安」が刻まれた土師器などが出土しています。 「勢門(せと)」という地名は、平安時代中期(931~938)の文献『和名類聚抄』にでてきます。
しかしながらやはり「ささぐり」の名の由来が気になります。これまでみつかった最古の文献は、長禄2年(1458年)に書かれたもので、福間町の井原文書の中にあります。しかしそこには由来に関する内容はありません。
みなさんも、自分が住んでいる地名の由来などを探してみてはいかがでしょうか?
参考文献
『福間町誌』
『地名辞典』 角川書店
『和名類聚抄』
『糟屋の屯倉』
『日本書紀』
『古事記』
金撒き岩
英彦山は修験道の国内三大聖地の一つとして古くから知られており、錫杖の音や吹き鳴らす法螺の響きが辺り一面の山々にこだましたところでした。
山伏達は毎年英彦山での「定」の修行が終わると、九州各地に散らばり檀徒や信者などを訪れ、浄財の喜捨勧進の行脚回向に勤めていました。
ある年の晩秋、筑前地方の勧進を終え帰途についた一人の山伏が、奉納金の入った笈を背負い、篠栗宿を過ぎ八木山の険しい峠にさしかかったときにはすでに日は暮れ、辺りはすっかり暗くなっていました。
山伏はやむなく山伏谷の粗末なお堂を見つけ、そこで一夜を明かすことにしました。周辺の枯木を拾い集め火をつけ、暖をとりながら堂内を見渡すと、檀上に一本歯の下駄を履いた役の行者像がこちらを睨みつけていました。
お堂の壁はいたるところ破れており、その壁のあちらこちらからは隙間風がピューピュー吹き抜けていきました。夜風が身にしみて、一人明日のことを考えながら横になろうとしたとき、お堂の外に人の気配を感じ、ふと振り返ると、そこには数人の山賊が立っていました。
山賊の一人が進み出て、「やいやい、やせ山伏。命を取ろうとは言わねえ。おとなしく笈の金を出しやがれ。」と大声を出しました。山伏は側にあった錫杖を身構えましたが、多勢に無勢、とても勝ちそうにありません。しかし、長い間山野を駆け巡り、野に寝、山に臥して集めたこの大事なお金を取られてなるものかと、後の羽目板を蹴破り外に出て、大きな岩の上まで逃げましたが、その先は吸い込まれるような漆黒の断崖絶壁でした。
「南無英彦山大権現、別しては太祖、役の行者様。この勧進のお金を護らせたまえ。」と唱えながら笈のお金を鷲づかみにしたかとおもうと英彦山の方向に向かって投げ上げました。するとあら不思議。お金は空高く舞い上がり、木の葉のようにひらひらと英彦山の方向に飛び去っていきました。
一夜が明け、辺りがふたたび静寂に包まれた頃、そこには哀れな姿をした山伏の亡骸だけが大岩の上に転がっていました。里人はこの山伏を哀れに思い、山伏塚をつくり、祀ってやりました。
今ではその山伏がお金を撒いたところを「金撒き岩」と言い、非業の死を遂げた山伏の伝説が語り継がれています。
「金撒き岩」は、現在篠栗新四国八十八ヶ所第三十四番札所宝山寺の境内にあり、信仰のために命を落とした山伏の霊を守るようなたたずまいを見せています。
『篠栗町誌(民俗編)』より
揺るぎ岩
霊峰若杉山(標高681m)は、篠栗町の南、須恵町との町境に聳え立ち、古来から竃山の山伏の聖域として、数百の僧坊があったと言われています。この若杉山の中腹に「古堂」と言われる平坦な場所があり、そこには昔「大講堂」が建てられ、多くの真言宗の僧侶が修行をしたと伝えられています。
その「古堂」の奥の鬱蒼とした場所に、今でも「揺るぎ岩(千石岩)」と言われる背丈を越えるほどの大きな岩があります。この岩は頂点に立っても根元が見えないほど絶壁になっており、その昔この岩に一匹の鬼が住みついて、里人に悪さをしたり僧侶の修行を邪魔したりしていたと言われています。
この「揺るぎ岩」について昔から次のような話が伝えられています。
平安時代の初頭、唐から帰国された空海上人(弘法大師)は、若杉山の奥の院に籠もられて、真言の秘法を修めながら都に帰る日を待っておられました。
あるとき、空海上人が「古堂」で修行をしていると、その悪さをする鬼が上人に力比べをしようと申し込みました。すると上人はその鬼に向かってこう言われました。
「お前はその千石岩を揺るがせるか?最初に私がこの岩を揺るがすからよく見ていなさい。」とその岩によじ登られ、右手で岩の頂点をつかみ、「えいや、えいや」と揺すぶると、あら不思議、「ゴットン、ゴットン」と音を響かせ前後に大きく揺れ始めました。
これを見た鬼は、「よし、俺も負けるもんか」と千石岩の頂点をつかみ、「よいしょ、よいしょ」と揺さぶりますが、びくともしません。「よおし、今度こそは」と両手に唾を付けて一気に押しました。すると一気に押した拍子に過って絶壁の岩の根元に落ちて気を失ってしまいました。
上人の看護でやっと気付いた鬼は、それ以来悪事を止めて上人の弟子になったと言われています。
揺るぎ岩は、少し前まで揺さぶり動かすことが出来たそうです。
『篠栗町誌(民俗編)』「揺ぎ岩」より
権現様の投げ石
昔、昔、博多湾の沖の方に、鬼どもが住んでいて、ときどき博多に来ては悪いことをして、人々を困らせていました。この鬼どもが、博多湾の中に、あと一つ二つの島があれば博多にあがりやすいから、どこかの山を持って来よう、と思い立ちました。そこで若杉山の麓の山を盗むことに決めると、大きな負子(荷担棒)を二つの山に突き刺して肩に担いで運び出していました。
これを見られた太祖様は「この山を盗むとは何事か、その山を置いて行け」と、若杉山の頂きから大きな石を鬼の足元めがけ三つ投げられると、唸りをあげて飛んで来た石は鬼の足元に落ちました。鬼は「この石があたったら大変」と驚いて、担いでいた山をそこへ放り出して逃げました。この山が、篠栗町の西の入口にある焼地山と丸山の二つだと言われています。
三つ投げられた石の一つは、乙犬作出から和田区に行く道の西側60メートル、JR篠栗線から南へ30メートルの水田の中に「権現様の投げ石だから、絶対に動かしてはならない」と、言い伝えられて仕事の邪魔になりながら残されていました。(現在所在不明)
二つめの投げられた石は、JR篠栗線の和田踏切から北へ約100メートル行き、7メートル幅の大きな農道と交差した処から西に約160メートル行った南側の字、幸町の水田のまん中にあったのを、耕地整理の邪魔になるので水田の一隅に移され、後日その水田の北西の農道に面した現在の処に、周囲を高さ10センチメートルのコンクリートで囲んで置かれています。
毎年春のお彼岸の入りには僧侶を招いて手あつい供養が続けられているそうです。なお、三つめの石の所在は不明です。
『篠栗町誌(民俗編)』「権現様の投げ石」より
袖摺岩
篠栗町の南端、須恵町との町境には霊峰若杉山(標高681m)がそびえており、頂上には太祖宮の上宮が鎮座し、篠栗町を見守っています。この太祖宮の裏にある大杉(福岡県指定天然記念物)を横切り、奥の院に至る険しい遍路道を行くと、行く手を拒むように二枚の巨石が両面に切り立っています。
この岩は「袖摺岩(そですりいわ)」と呼ばれ、足一本がやっと通るくらいの隙間しかありません。昔から悪いことをした人や、罪深い人はこの岩間に足が挟まって、通り抜けることが出来ないといわれています。
地元の古老によると、「私は以前、茶屋の番人をしていました。ある日、岩場のほうから悲鳴が聞こえてきたので、そこへ行ってみると、中年の女性が岩の間に立ちすくみ、真っ青になってうちふるえていました。すると奥の院の方から僧侶が現れ、大声で読経を始めました。読経の途中その女性に向かって、『懺悔しなさい、ざんげしなさい』と説教すると、女性はすかさず大声で何事かを叫びました。やがて読経の声と交錯して全山に響きわたるようになりました。何分たったでしょうか、女性の体が少しずつ、少しずつ動きはじめ、やっとのことでその岩間を通り抜けることができました。」と話してくれました。
この岩間は、別名「挟み岩(はさみいわ)」ともいい、はるか昔、密教を伝授する為に唐から渡航された善無畏三蔵が念力で押し開いたと言い伝えられています。今ではそこには鉄の鎖が通り、安全に通ることが出来ます。
『篠栗町誌(民俗編)』より
中納言岩
若杉山には、標高約400mのところに篠栗町を見渡すことができる若杉楽園と呼ばれるキャンプ場があります。そこから距離にして400m位南に上ると、岩の周囲が55mほどの大きな一枚岩があり、北側がひさしのように突き出ています。その岩上には不動明王があたりを見下ろすように立ち、真下には十三仏が祭られています。この大岩のことを「中納言岩」と言い、若杉山にまつわる戦国時代の伝説が残されています。
かつて若杉山の綾杉谷と言われるところには、神功皇后伝説に由来する御神木の「綾杉」が多くありましたが、江戸時代に書かれた『筑前国続風土記』によると、「・・・近き世までは、綾杉多かりしが、筑前中納言秀秋の時、切除れて、今はなし。・・・」と記され、当時の様子をうかがい知ることができます。
今から400年ほど前、豊臣秀吉が外国に攻め入るため、大量の軍船が必要になり、諸藩主に急いで作るよう命じました。そのときに筑前の藩主だった小早川秀秋(中納言)が若杉山中に入り、大岩の上に陣取り伐採を命じ、なんと言うことか御神木である綾杉をたくさん切り出してしまいました。
もともと若杉山自体が太祖宮の神領地であり、そこに生えている木は神様の木として大切に守られ、切ってはいけないとされてきました。特に綾杉は御神木とされ、伐採を堅く禁じられていました。
天文13年(1544)には、大内義隆が若杉山に生えている竹木の伐採禁止令を出し、神域を守っていましたが、秀秋はその命令をも無視して、無残にも神域は見る影も無く荒らされてしまいました。
このまま何事も無くすむとは思えません、その後秀秋はほどなく病気にかかり、子孫を残さないまま若くして死んでしまい、秀秋の家系は途切れてしまいました。
人々は、これは太祖大権現の神罰が下ったのだと信じ、今でも秀秋は悪評ばかりが残り、良く思われていません。
この秀秋が陣取った大岩を地元では、「中納言岩」といつしか言うようになりました。
秀秋の伐採を免れた杉が若杉山中に残り、今でも森の番人のようにその大きなからだを大地に立たせて篠栗町を見下ろしています。
参考資料
筑前国続風土記
篠栗町誌(歴史編)
糟屋町誌
天狗岩
篠栗町の若杉山中には、天狗岩と呼ばれる場所があります。鬱蒼と繁る杉林の間に奇怪な大岩が、折り重なるように立ちはだかり岩山を形成しています。岩間からは樫や楢の木が、わずかな隙間に根をはって林立しており、その風景は今にもどこからともなく天狗が現れるような気がしてなりません。
岩山の頂上には、篠栗新四国八十八ヶ所霊場の第六十三番札所が祀られており、巡礼者はその険しい岩間を鉄の鎖を頼りに、小岩窟に安置されている石仏群を巡拝します。
かつて小早川秀秋の家臣に、岩見重太郎と言われる人がいました。幼い時に神隠しに会い、数年の間宝満山、三郡山、若杉山の三山で天狗に従い、兵法や武芸を学んだと言われています。彼はこれらの巨石群を修行の場としていたらしく、「重太郎天狗飛切りの岩」などの名称が今も残されているそうです。
また、頂上近くに「天狗松」と称する巨大な松の木が亭々としてそびえ、国道201号線からも見ることが出来たそうですが、戦後松喰虫の被害に遭い枯死してしまいました。その跡には、昔を物語るかのように「天狗の像」が安置されています。
篠栗町誌『民俗編』より
高尾の焼薬師
かつて若杉山には湯屋原と呼ばれた所があり、そこから温泉が湧き出ていたそうです。ある日のこと、若杉山の高尾の薬師様が、二日市湯町の武蔵寺の薬師様とその温泉を賭けてある勝負をしたそうです。
不運にも高尾の薬師様はその勝負に負け、湯屋原の噴湯は武蔵寺の薬師様に渡されてしまい、ついに若杉の温泉は止まってしまいました。
勝負に負けてからしばらく経ったある夜のこと、高尾の薬師様を信仰しお守りしていた治右衛門と孫市の夢枕に高尾の薬師様が立ちました。
「おーい、治右衛門よー。おーい、孫市よー。早よー来んかー。己が焼けてしまうぞー。早よ堂から出してくれ。」
炎に包まれた薬師様が夢の中で大声を出し、二人に助けを求めているではありませんか。
これは大変と飛び起き、高尾の薬師堂に急いで駆けつけると、薬師堂は既に真っ赤な炎に包まれていました。
二人は炎をものともせず、お堂の中に祀られていた薬師様を抱きかかえ、すかさず渓流に身を浸し、火を消しました。
火が消え二人とも「ほっ」として薬師様を見てみると、全身が黒く焼けて顔の模様もわからないほどになっていました。
そのときの焼け傷が今でも残り、地元では高尾の焼薬師様と呼ばれているそうです。
その後数回若杉山に大火事が起こり、谷間の家がほとんど焼けてしまった時でも、治右衛門と孫市の家は運良く焼けずに残ったそうです。「これはお薬師様がお助けになったに違いない」と思い、より一層信心し、この薬師様のお守りに励んだといわれています。
篠栗町誌『民俗編』より
平家岩
「平氏にあらざる者は人間にあらず」と豪語し、栄華の限りをつくした平家一門も清盛の死後、急速に衰退し、ついには寿永4年(1185)3月14日、長門の壇ノ浦の合戦で一族の大半が海の藻屑と消え去ってしまいました。
しかし一説では、二位の尼に抱かれて「海の底にも都ありや」と共に入水された安徳幼帝でさえ、生き延びられて余生をながらえられたとする伝説が所々に流布されたのです。
わが篠栗にも「平家岩」なる伝説地があり、源氏の追い討ちを逃れた平家の落人がこの岩窟にこもり住んだと言われています。
この話に関する話は『筑前国続風土記拾遺』に次のように書かれています。
「又平家岩とて木戸畑の後(一町)に在、天然の岩窟也、昔平家の落人来て隠れ居りし所、この名有りと云、附会なるべし、この谷に屏風岩とて屏風に似たる石二つ有、又傍らに小滝(高一丈斗)有、虹が滝と云う、又洞中を潜り行所有、頗る奇境也」
又平家岩という所が城戸畑の後ろにある、天然の岩窟である、昔平家の落人が隠れ住んだ所で、この名が付けられたそうだ、少し紛らわしいようだが、この谷には、屏風に似ている屏風岩と云われている岩が二つある、又傍らに高さ約一丈ある虹が滝と云う小さな滝がある、又洞穴を行くとすごく奇妙な感じである」と記されています。
また青柳種信は、平家落人説に対し「附会なるべし」と記していますが、他の古文書によれば、安徳幼帝の御妹千鶴姫(三歳)が平家の家人氏尾蔵人に連れられて篠栗の平家谷に隠れたことが記されています。
平家岩は今では城戸区の南蔵院の奥にあり、樹木がうっそうと繁る幽谷で岩窟もそのまま残り、虹が滝は「不動が滝」と改名され、篠栗新四国霊場第四十五番札所が安置されています。
鉾立山
神代のころ、海津見神(ワタ゛ツミノカミ)の娘である玉依姫(タマヨリノヒメ)は、神武天皇の尊父である彦波剣武鵜茅葺不合尊(ヒコ゛ナミサタケウカ゛ヤフキアエス゛ノミコト)に嫁いだ際に鎮座する山を求め、筑紫の山野を巡幸していました。
あるとき一行は鞍手と糟屋両郡に聳える嶺にたどり着きました。この山は、周囲の山より高くぬきんでており、眺望は絶景で、東に遠く豊の国、西には筑紫の山々を見渡し、北には大海原が開けてはるか韓の国さえ望まれる、誠に神の鎮座するのにふさわしい山と思われました。
玉依姫は、吹上げてくる風に髪をなびかせながら、「あなすがすがし」と仰せになられました。そこで、この山をすがだけ(菅岳)と呼ぶようになったと言われています。
神の鎮座する山はここ(菅岳)に決まると思われましたが、遠く南西に山容の美しい山(竈門山)が見えました。どちらの山も大変魅力的だったのですぐには決めることが出来ませんでした。そこで、神々はどちらの山にしようかと話し合いましたが、「いずれか高きを選ばん」と言うことになり、どちらか高い方の山を鎮座する山に決めようとしたそうです。
そこで、菅岳の前の山頂に鉾を立て、「さて、どちらの山が高いのかな?」と測ろうとすると、不思議な事に今まで高かった菅岳が、裾の方から少しずつ減り始めていき、竈門山より低くなってしまったではありませんか。そのため、この菅岳を「へり山(縁山)」と言い、鉾を立てた山を「鉾立山」と呼ぶようになったそうです。
その後、ご一行は竈門山に向うために縁山を下りることになりました。途中、咽が渇いたので山腹に湧く清水を呑み、渇きをいやしたそうです。そこでこの場所を「呑山(野見山)」と名付けました。
こうして、神々は筑紫の竈門山(宝満山)に到着し、この地に永く鎮座することになったそうです。今でも竈門山の宝満神社は、玉依姫を主神として祭祀され、全国宝満宮の総本社として、神徳高く尊崇されています。
『篠栗町誌』(民俗編)より
火除け観音さま
高田区にある篠栗新四国八十八ヵ所霊場第三十二番札所敷地内に、全身が黒く焼けた木造十一面観音座像をお祀りしたお堂があります。このお薬師様にまつわるお話をこれからいたします。
それは明治時代の初め頃、一人の僧がこのお堂に住みつき、近所に物乞いしたり、肉類の常食はするし、近隣の住民から大変忌み嫌われていました。
ある晩この僧が原因の失火でお堂が燃え上り、火の海となりました。お堂の周辺には茅葺屋根の農家が密集し、後ろは雑木林に接しているので,周辺に飛び火して延焼が心配されましたが、不幸中の幸いにもこのお堂だけで消し止める事ができました。
近くの住民が、観音様はどうしたのだろうと探したところ、裏の雑木林のなかに少し焦げた台座と全身が黒焦げになった仏像がころがっていました。誰もここには持ち出してはいないのにと不思議がっていましたが、観音様が見つかってほっとしました。
それではあのお坊さんはどうしたのだろうと辺りを見回すと姿かたちも見あたりません。どうやら観音様が追い出してくださったのだろうと、近所の人たちは喜び噂しました。
数日後、黒焦げになった観音様を修復する為に、博多の仏師へ持っていこうとしたところ、途中町家の火災に出くわしてしまい、順調に運べずやっとのことで博多へ到着しましたが、仏師が修理をはじめようとすると急に悪寒が走り、高熱が出て病気になってしまいました。ついには修理ができずそのまま観音様をお堂に持って帰ることになりました。
また明治42年の春にお堂が燃えあがった時には、火に包まれたお堂の扉を急いで開け、中から観音様を持ち出すと不思議な事にすぐに鎮火しました。
いつしか村の人たちはこの観音様のことを火除け観音様と呼ぶようになり、周辺の火災のときにはこの観音様をお堂から持ち出せば、火はすぐに消えると言って崇め祀っています。
昭和7年には、博多の信者の人たちが観音様の光背と蓮台に金箔を新調しましたが、黒焦げになった仏像には何にも手をつけていません。
高鳥居城の話
若杉山の西に延びる尾根上には、戦国時代に山城(注1.)が築かれたとされる岳城山があります。丁度須惠町との境になるこの頂きには、現在記念碑が建てられ、かつては戦場であったこの地を偲ぶ事ができます。ところで、星野村と博多区の吉塚とこの山城には深い関係があるのをご存じでしょうか?
天正14年(1586年)8月25日、敵の豊臣秀吉軍が南下するのを知った島津義弘は星野村出身の星野兄弟(注2.)を高鳥居城に守らせて、撤退してしまいました。激しく戦う秀吉軍に、星野兄弟はなすすべもなく落城させられてしまいました。
秀吉軍の将であった立花宗茂は、好戦して亡くなった星野兄弟の塚を造り、手厚く当時の堅糟村に葬ったとされます。今ではこの地を星野兄弟の名にちなんで「吉塚」としたそうです。今では博多区「妙見」の交差点付近にお地蔵様が祀られています。
注1.山城:永仁元年(1293年)、尾仲の地頭に任命された河津筑後守貞重が岳城山頂に土塁を築き、高鳥居城と名付けた。一説によると、蒙古の第3襲来に備え、博多湾が一望出来る岳城山に北条氏が狼煙台を作ったのが始まりとされる。
注2.星野兄弟:兄の名を星野中務大輔吉実(ほしのなかつかさよしざね)、弟を星野民部少輔吉兼(ほしのみんぶしょうゆうよしかね)と言い、この兄弟を葬った塚を当時は吉実塚と言ったそうです。
善無畏三蔵とグーズ岩
奥の院から階段を上り詰めると、善無畏三蔵を供養した祠があります。この中には高さ約三尺の五重塔が安置されていたそうです。
善無畏三蔵は、インドから中国へ来た密教の高僧で、奈良時代、密教を広める為に日本へ渡航することになったそうです。渡航途中激しい嵐に遭遇し、船が木の葉のように翻弄され今にも沈もうかと思われたとき、善無畏三蔵は若杉山頂の岩窟に祀られている八大龍王にむかって「船が無事に港に着きますようお守りください。着きましたら必ずお礼のお祭をいたします。」と祈願しました。
数日後、何とか無事博多湾に辿り着く事ができた善無畏三蔵は、衰弱した体にもかかわらず、八大龍王のお祭を行わなくてはならぬと気を引き立てながら若杉山にむかって歩いて行きました。するとどこからともなく大きなグーズが現れて、善無畏三蔵にむかって自分の首を長く伸ばして甲羅に乗るような仕草をするので、甲羅にまたがると,グーズは山にむかって登り始めました。やがて山の八合目まで登ると、グーズは止まって動かなくなり、岩になってしまいました。
善無畏三蔵は手厚くグーズに礼を言い、無事山頂に辿り着くことが出来、八大龍王のお祭りをねんごろに行ったそうです。
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